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    節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和おとなしい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落かけおちした。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせいもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。

    相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつていた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつている男のうしろに出張所側の連中がかたまつていた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけていた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。

    「なに、切れてるつて?」

    各区内から繰り出された行列はちやうど正午少し前に上手の小学校に集合し、一斉に万歳を奉唱し、中食をすませて更に町内を練り歩くことになつていた。はじめから主だつた町内を歩くのでは照臭てれくさくもあつたし、且つは又家の少いところを先に済ませてしまはうといふ考へから、紙着の一隊は先づ手はじめに河向かはむかふへ繰り出したのであるが、それが失敗の基だつた。路は近さうに見えて案外遠かつた。大体いゝ加減なところから引返して来はしたものの、なにしろ足はめつたにはいたこともない木箱につゝこんでいるのだつたし、十一月とは云へ日に照りつけられ、汗ばみ、埃をかぶり、紙衣はがさがさして歩きにくいことこの上もなかつた。そして、笏しやくを胸のところに両手で捧げ持ち、多少とも気を張つて真正面をむいて歩くのは、かなり努力の要ることだつた。しまひには、木箱の中で突つかける指先きに豆ができたばかりでなく、薄い板片れでつくつたその沓底は割れるものが続出し、中には様子を見ながらつき添つて来た男に家まで草履をとりに走らせた者があつた位だつた。

    「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」

    そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。

    「やあ」と、目で挨拶して何気なく行き過ぎようとすると、相沢は殆ど判らない位に軽く房一の腕にさはつて引きとめた。そこは拝殿からも馬場からも大分離れた場所だつた。あたりに人はいたが、顔見知りはなかつた。相沢はあなただけに、といふ風な一種秘密げな顔をしていた。房一は殆ど直覚的に、それが訴訟に関係したことだ、と悟つた。あの訴訟については、昨冬以来相沢は度々地方裁判所のある市に出かけ、鍵屋の方でも弁護士を立てて一二度審理があり、証人の申請があつたとかいふやうな話を、房一も聞いていたが、鍵屋の方では口を緘かんして語らないし、成行は他の者には少しも判らなかつた。その噂の最初がやかましいものだつたにかゝはらず、何にしろ事件はこの土地からはるか離れた所で遅々として進んでいるのか停滞しているのかわからない位であつたから、いつとなく遠耳になつていた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはいられなかつたのである。

    が、一方盛子もまさに自分の幼時を知つていると云ふ見知らぬ人から声をかけられた時のやうに、目をぱちくりさせ、好意のまじつた当惑と云つたものを感じていた。

    「それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね」

    この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。

    云ふなり又思ひ出したやうに玄関へ上つて行つた。

    と訊いた。

    「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」

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